地霊を体感する建築-福岡東峰村のシビックプライドを育む神楽文化学校-/ITB9

これらの歴史の結果、集落構造がどう変化したのか。

かつては修験道の中で重要とされていた場所に集落が形成されていたが、

旧宝珠山村では、修験道の衰退と石炭運搬のために鉄道ができたことで村の重心が大行司駅周辺に移った。

旧小石原村の小石原地区は、修験道の宿や、交通の要衝としての宿場町や門前町であり、現在も窯元が存在するため村の重心となる場所である。そのため、村合併後も分庁舎方式をとっている。


これらの歴史はどのような地理的要素によるものか。

・彦山の神領内に位置したため、修験道の宿が存在し、山に対して豊作を祈願したり感謝したりする祭りや神楽の文化が残っている。

・旧村間には山があり、筑前、豊前、豊後の境に位置していたため、双方の旧村のつながりがほとんどないまま現在に至る。


かつての村と現在の村では、どのような物理的な変化があり、どこに問題点があるのか。

・かつては大字単位はもちろん、小さな集落単位でも祭り等があり、住民のコミュニティ形成に役立っていたが、人口減少や重心が変わったことで集落が成り立たなくなり、祭りも人手不足そなっている。

・かつては旧村間にそれぞれ軸があったが、修験道の衰退や、村の重心のずれ、祭りなどの文化に衰退により、軸が分かりづらくなっている。

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コメント: 1
  • #1

    admin (木曜日, 04 12月 2014 11:09)

    歴史の教科書の挿絵ではなく、より具体的な村の構造を分析する。地形も同様。図面を描け。YMDはちゃんと自分で街の図面を作って、いろいろ分析しているぞ。

    *修験道の中で重要とされていた場所はどこで、それはなぜか?
    *旧宝珠山村の鉄道と集落の関係を示す。
    *「村の重心」とは誰がどうやって決めるのか?なぜそう思うのか?
    *修験道の宿はどこにどれだけあるのか?なぜ宿場町や門前町であると言えるのか>その名残はどこにあるのか?
    *現在も窯元が存在するのはどこで、なくなったのはどこか?
    *祭りや神楽の文化はどこに残っていて、どこが無くなったのか?
    *集落はなぜ成り立たなくなり、それはどこで分かるのか?
    *かつての旧村間の軸はどれか?「軸」とは何で、誰が決めたものか?